03 インカの橋 「寅和の橋」
「私もう耐えられない……」
真夏だというのに首まで覆い隠すような服を着込み、その長い袖口からはいくつもの青痣が見え隠れしていた。腫れた瞼に着けられた眼帯は痛々しく、これまでに彼女がどれほどの酷い仕打ちを受けてきたかを想像するのに難くなかった。
「こんなこと誰にも言えないし、もう頼れるのは瞳だけなの」
世間体を大事にし、社会的地位のある彼女の夫を告発したところで、すぐに揉み消されてしまうだろう。私は泣きじゃくる絵理子を抱き締めながら、ある決意をした。
「……やるしかないよ」
「え?」
「殺すしかない」
「そんな、殺すだなんて!」
絵理子は青ざめた表情で私を見つめる。
「私たちに残された手段はもう他にないんだよ。……大丈夫、絵理子は心配しないで。全部私に任せておけばいいから」
「瞳……」
これ以上彼女が傷つくのを見ていられなかった。一人きりだった私に、唯一声をかけてくれた絵理子。彼女がいなければ今の私はいない。彼女さえいてくれたら何もいらない。絵理子は私のすべてだった。
男を始末するのは簡単だった。絵理子のことで話があると呼び出し、飲み物に毒を混ぜるだけであっけなく死んだ。問題は死体をどう処理するかだ。簡単に発見されるわけにはいかなかった。今の状況では真っ先に絵理子が疑われてしまうだろうし、何よりこれからも彼女と生きていくために、誰にも邪魔をされたくなかった。
悩んだ挙句、私は死体を埋めることにした。ここ「寅和の山」は奥深くに寂れた神社があるだけで、滅多に人の訪れることがない絶好の遺棄場所だった。はずなのに。
「C地点にて容疑者発見、ただちに応援を要請する」
何故か警察は、既に私が絵理子の夫を殺害したことを把握していた。遺体を運ぶ時に目撃されていたのか、きちんと周りを確認しなかったことが悔やまれる。
「いたぞ、左右から回り込め!」
どこをどう走っているのかも分からぬまま、道なき道を駈け進んでいく。切れそうな息。激しく打ちつける鼓動。これ以上走れないと悲鳴を上げる体を無視して、必死に手足を動かす。汗をぬぐう余裕すらないが、今ここで捕まるわけにはいかなかった。捕まれば二度と絵理子に会えなくなる。そんなの私にとっては死んだも同然だ。
ふいに開けた場所に出た。前方には橋が架かっているのが見える。確か「寅和の橋」だったか。山の入口にあった看板によれば、今は誰も参拝することのなくなった神社へと続いているらしいが、長い間使われていない橋は今にも崩れ落ちそうだった。
「――っ」
足下の小石が谷底へと転がり落ち、すぐに見えなくなった。恐る恐る覗き込んでみれば、あまりの高さに滝のように流れていた汗が一気に引いていくのが分かった。木々に覆われて分かりづらいが、随分前に通り抜けた川が見えた。いつの間にかかなりの距離を登ってきていたらしい。夢中で逃げていたせいで気が付かなかったが、心なしか呼吸がうまく出来なくなっていた。
このまま警察に捕まるか、橋を渡って生き延びるか。すぐそこまで警察は迫ってきている。悩んでいる暇なんかない。今この瞬間さえ乗り切れば、また絵里子と二人で生きていける。それならば選択肢は一つだ。私は迷うことなく前方の橋へと走り出した。
「お前ら続け! 絶対に逃がすな!」
後ろを振り返り確認するも、誰一人橋を渡ってくる気配はない。警察でさえ、一歩間違えれば、谷底へ真っ逆さまに落ちていくこの橋に尻込みしているようだった。
逃げ切れるかもしれない。そう思った直後、
「う、そ――」
踏み出した足が床板を突き抜ける。重力から解放され、刹那の浮遊感が襲う。咄嗟のことで掴むことも出来ず、私の体は眼下に広がる暗闇へと投げ出されていった。
「絵理子……っ」
こんなところで死にたくない。私はまだ、彼女に好きだと伝えていない。
落ちていく意識のなか最後に捉えたのは、美しく微笑む絵理子の姿だった――。
「あいつ、落ちたのか」
「落ちたわ。この高さじゃ助からないでしょうね」
「しかし、人殺しまで頼んでおいて、橋の板にまで細工するとはな。あの瞳って子、友達だったんじゃないのかよ」
「人聞きの悪いこと言わないで。彼女が勝手に勘違いしただけよ。私は殺してほしいなんて一言も言ってないわ」
「ったく、お前ときたら本当酷い女だな」
「その酷い女を好きなのはどこの誰かしらね」
彼女はくすくすと笑いながら彼女は傍らの男に腕を絡めると、静かにその場を立ち去った。